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【アライアスリート・インタビュー③】男でも女でもない、ただ「齊藤夕眞」として。 Qを公表したサッカー選手が歩んだ自分らしさへの道のり
プライドハウス東京(PHT)では、2022年より、「アライアスリート」の輪を広げる活動に取り組んでいます。アライ(ally)とは、「同盟、味方」などを表す言葉。LGBTQ+当事者の味方としてともに行動する人たちを総称してアライといい、LGBTQ+当事者もアライになることができます。アライアスリートは、そのようなアライであることを公言し、スポーツ界から社会を動かすアクションを一緒にしていくアスリートです。
そうしたアライアスリートの育成・輩出にPHTとして取り組みはじめて早3年。今年、アライアスリートの人数が45名になりました。そこで、2025年度は、多様なアライアスリートの存在を知っていただけるよう、インタビュー連載を実施しています。全10回にわたり、各アスリートの来歴やアライアスリートになったきっかけ、活動内容などを取材。それぞれの想いをお届けします。
連載3回目は、女子プロサッカーのWEリーグで選手として活躍されている齊藤さんに取材。現在は自身が「Q(クエスチョニング/クィア、※)」であることを公表している齊藤さんの今日までの歩みや葛藤、想いに迫ります。
※Q(クエスチョニング):誰を好きになるか(ならないか)や自分がどんな性別なのかを決められない、分からない、あえて決めない人。クィア(Queer) のQとも言われます。自分が感じている性別や誰を好きになるのかが非典型的で多数派ではない人のことを言います。
■プロフィール
齊藤夕眞/サッカー選手
1993年生まれ、埼玉県出身。4歳の頃からサッカーを始め、2008年にFIFA U-17女子ワールドカップへ出場を果たす。2010年にはFIFA U-20女子ワールドカップに出場し、2011年にはFPFアルガルヴェ・カップ 日本代表に選抜。同年、常盤木学園高等学校を卒業し、企業のチームやクラブチームなどでプレー。2019年にサッカー選手を引退したが、2020年末にヴィアマテラス宮崎に入団し、サッカー選手へと復帰した。現在は女子プロサッカーのWEリーグで現役選手として活躍中。
小学生の頃に感じた、自身の性別への違和感
——齊藤さんは小学生の頃から、自分が女性であることに違和感を抱いていたと伺いました。
小さな頃から、よく「男に生まれたかった」と言っていました。仲の良い友達は男の子が多かったですし、兄がいたこともあって、自分のことを「俺」と言って、男の子と同じような格好や遊び方、言動をして過ごしていました。
女の子に恋心を感じて、「カッコいい自分」でいることが自分らしいと思っていたので、小学生になってから、学校生活の中で男女で違うことをしなければならない点にすごく違和感を持ったんです。幼稚園の頃までは男の子と全く同じように過ごせたのに、小学校以降、急に思い通りにいかなくなった感覚が強くありました。
なので、小学生の間は、親や先生に自分の思いを伝えて男の子と同じ物を買ってもらうことも多かったです。例えば、ランドセルは親から「赤にしなさい」と言われましたが、黒を選びました。兄も友達の男の子たちも黒を選んでいたので、それが自分にとって自然な選択だったからです。私が通っていた学校では、体操服や水着だけでなく校帽も男女でデザインが分かれていたのですが、どうしても男の子用の帽子が被りたくて、校長先生に交渉しました。その結果、「親が買ってくれるなら男の子用のものを被っても良い」と許可をいただき、親にねだって男の子用の帽子を買い直してもらいました。
胸の発達への違和感も大きかったですね。人によって差はあるものの、女子はだいたい小学校高学年の頃から、胸がふくらむなどの第二次性徴が始まります。私も4〜5年生のときに胸が出始めてきて。当時、家族で川で遊んだ際に、私が兄のように下半身だけ水着を履いて上半身は裸で過ごそうとしたのですが、私の体の発達に気づいていた母から「女の子なんだからやめなさい」と叱られました。ここには家族しかいないのだし、好きな格好をしたいと思いましたが、自分の体が女性らしいものに変化し、女性としての振舞をより一層求められることに何とも言えない気持ちになりました。
——そうした違和感に気づいたことが、26歳でサッカー選手を引退後、男性として生きるための治療を開始することに繋がるのですか?
男性になろうと考えた背景には、自分の性別への違和感はもちろん大きく影響していますが、治療をするまでに一直線で進んできたかというと、そうではありません。
実は中学校の3年間だけは、懸命に“女の子”を演じていました。嫌だった制服のスカートを履いて、ずっと短かった髪の毛を伸ばし、一人称も「俺」と言っていたのを「うち」に変えて、本当は女の子が好きだったけれど男子に恋しているフリをして……「スポーツをしている活発な女の子」を演出して過ごしていました。
——そうだったのですね。なぜ、中学校では女の子を演じることにしたのですか?
“周りと違う自分”であり続けることで、同じ中学校に通う兄や、自分自身がいじめられてしまうことが怖かったからです。小学校の6年間は、同級生のみんなが「齊藤あかね(齊藤さんの以前の名前)=男っぽい女」と認識してくれていたので、私も自分らしくありのままの姿で過ごすことができました。でも、近隣の4つの小学校から生徒が集まる中学校では、同じ学年の4分の1の生徒しか自分のことを知りません。スカートを履かず、一人称で「俺」を使い、男の子のように振る舞う女子生徒がいたらどう思われるか。周囲の目や世間体をものすごく気にしてしまったんです。
それまで抱いてきた「“女の子”の枠に当てはめられたくない」「男の子と同じように過ごしたい」という自分の中の自然な思いは、周囲の言動を見る中で、段々と「言ってはいけないものだ」と考えるようになりました。当時、2歳年上の兄からも、「中学には、お前みたいに自分のことを『俺』とか言っている女はいない。俺がいじめられるから、男っぽくするのをやめろ」と言われていて。いろいろなことが積み重なって、自分がただ「人と違うことがしたい」と駄々をこね、わがままを言い続けている煙たい存在のように思えて仕方がありませんでした。そのため、自分の言動が原因でいじめが起こってしまうのならと、中学時代は女の子を演じ続けようと決意したのです。
本当の自分とは違う姿で過ごしていましたが、この時期に初潮や胸のふくらみなどの体の成長が一気に来てくれたことで、男の子っぽく過ごしていた頃よりは体の変化に拒絶感がなく、第二次性徴の時期をうまく通り過ぎることができたように思います。小学生時代の自分のままだったら、生理やブラジャーを全く受け入れられなかったかもしれません。
——本当の自分を隠して過ごすことには、苦しさも伴ったのではないでしょうか。
当時は、周囲から「変だ」と思われていじめられるよりは、偽りの自分を演じているほうが楽でした。ただ、中学生の頃に所属していたクラブチームのチームメイトが、ショートヘアで好きな服装をして、女の子と自由に恋愛をしている姿を見て、羨ましさを感じなかったかと言えば嘘になります。
FtMとして治療を始めるまで
——高校では、再び自分らしく過ごすことができたのでしょうか。
そうですね。これまでの自分を知る人がいない場所に身を置こうと思い、宮城県の女子校に進学したので、高校では比較的自分らしく過ごせました。中学卒業と同時に伸ばしていた髪をバッサリと切って、自分がしたい格好をして、寮で暮らしながら学生生活を送っていましたね。
高校でもサッカー部に入ったのですが、同じ部活で友達になった中に、トランスジェンダーでFtM(Female to Male、出生時に割り当てられた性別が女性であり、性自認が男性である人のこと。現在では「トランスジェンダー男性」とも言う)をカミングアウトしている子が4人ほどいました。その子たちと話をする中で「トランスジェンダー」や「性同一性障害」という言葉を知って。「齊藤もそうなんじゃないの?」と言われたことがきっかけで、自分もトランスジェンダーに当てはまるのではないかと考えるようになりました。
この2つの言葉を初めて聞いたときは、青天の霹靂でした。それまでは男女2つの性のあり方しかないものだと思い込んでいましたし、「一人ひとり性格が異なるように、周りの女の子と感覚が違うだけだ」と自分のことを捉えていたので、まさか自分が「障害」と重々しく名前がつくようなものに当てはまるとは想像もしていませんでした。でも、トランスジェンダーや性同一性障害のことをいろいろと調べていくうちに、Web記事やブログに書いてある内容に共感できるなと感じたんです。そこで初めて、自分自身がLGBTの当事者だということを自覚しました。
LGBTの中でも自分の感覚に最も近いのはトランスジェンダーだったので、高校生から26歳の頃まではトランスジェンダー男性を自認。いつかサッカーをやめたとき、男性になる治療をしようと決め、そこからは特に自分の性自認や性的指向などに疑問を抱くことなく過ごしていました。
——そうした経緯があって、26歳の頃に女子サッカー選手を引退し、男性になるための治療を始めたのですね。
そうです。26歳の頃に引退と治療を決断したのは、男女を問わず周囲の人たちが結婚し始めていたからでした。自分も当時、結婚を意識するパートナーがいました。その人といつか結婚をするのなら、“男性”として一人の女性を守れるだけの稼ぎと力をつけなければいけない。その状態を目指して新しい環境、新しい自分に踏み出すのなら、26歳の今がベストなのではないか。そう思ったことで、サッカーをやめ、名前を変え、乳房を取る手術をして、男性になるための治療を始めていったのです。
——当時の齊藤さんにとっては、サッカーをプレーすることよりも、男性になって結婚をすることのほうが人生の大きな要素だったのですね。
おっしゃる通りです。当時はサッカーをやりたい気持ちよりも、「男性として結婚して、家族を守ろう」という気持ちのほうが強くなっていました。
今思えば考え方がとても偏っていたと感じるのですが、当時の私には、結婚をしたら自分の父と母のように「男性が仕事をして家族を守り、女性は子どもを産んで、家庭を営んでいく」というイメージが強くあったんですよ。だから、まだプロリーグがなく、稼ぐことが難しかった当時の女子サッカーを続けていては、家族を養っていけないし、結婚などできないと思い込んでいたんです。
Qとして生きることに決めた理由
——現在は「Q」を公表されていますが、トランスジェンダーからQへと認識が変わったのはどうしてですか?
大きく3つの理由があります。1つ目が、男性になる治療の過程で胸をとったことで、とてもスッキリしたからです。高校時代からずっと男になろうと思ってきましたが、手術で乳房と乳腺を切除し、胸を平らにしたことで、とても生きやすくなりました。自分の中では「男性になりたい」という気持ちよりも、「ふくらんだ胸の存在が嫌だ」という気持ちのほうが大きかったのだと、手術を終えてから自覚しました。
2つ目が、結婚がすべてではないと考えるようになったからです。当時付き合っていたパートナーと結婚しようと考えていましたが、治療を進める中で、自分の人生の中で「結婚をしない」という選択肢を選ぶのもアリなのではないかと思うようになりました。
3つ目が、治療で胸をとり、声が低くなったことで、周囲の視線が気にならなくなったからです。これまでは、名前や声と自分の見た目に大きなギャップがありました。だから、例えば病院で「齊藤あかねさん」と呼ばれたとき、周囲から驚きの視線が向けられることも多くて。パートナーとデートに行った際も、レストランで注文をしたときなどに店員さんや周囲のお客さんから「カップルかと思ったけれど、女同士だったのか」という一瞬の反応を見せられるのがとても嫌でした。でも、治療をしたおかげで、ありたい自分の姿で過ごしていても、誰も気に留めなくなったんです。
かなり生きやすくなってきたなと感じていたとき、「LGBTQ+」という言葉を知りました。それまでは「LGBT」の「T」までしかないと思っていたところに、クエスチョニングやクィアを表す「Q」という性のあり方があることを知って、高校生ぶりに衝撃を受けて。これまでの私には「男か女、どちらかに決めて生きていかなければいけない」という固定観念が強く存在していました。でも、「男でも女でも、どちらでもない。どちらにも決めない」という生き方もアリなんだと分かったとき、「自分はこれだ」と腑に落ちた。だから、今のところは「Q」として、男でも女でもなく、ただただ「齊藤夕眞」として生きています。
——性別を何らかの定義や区分に当てはめることへの違和感が、「Q」の自認に繋がったのですね。
そうですね。実はずっと、性別をどこかの定義に当てはめなければいけないことにしっくりこない気持ちを持っていたんです。その感覚は今も持っていて、「Q」を公表していますけれど、「Qだからこういう人だよね」と思われたくない気持ちは強いです。自分の振る舞い方は自分で決めたい、というか。
今は女子サッカー選手として、自分のあり方に納得して生きていますが、この先の自分がどう変わっていくのかは分かりません。。「私のセクシュアリティはこれです」と言えないところがあるからこそ、「トランスジェンダーだから」とか「Qだから」とか「女だから」とか、性別で一括りにして言われたくない。齊藤夕眞は齊藤夕眞です。自分として生きていけたらなと思っています。
多様性社会の実現、その一歩は「知ること」から
——齊藤さんがアライアスリートになろうと思った理由を教えてください。
大きなきっかけは、齊藤あかねから齊藤夕眞として宮崎県のチームでサッカーに復帰し、「Q」を公表して、自分自身の講演活動を始めたことでした。サッカー選手に戻り、自分のことを公表していなければ、アライアスリートになろうとは一切考えなかったと思います。
というのも、私はもともと、自分の人間関係や世界が狭まってしまうかもしれないことが怖くて、自分が性的マイノリティであることを公表するつもりはなかったんです。ですが、サッカー選手に復帰をするのなら、引退前と名前が変わっていること、声の高さが変わっていることなどに説明がつきません。自分やチームを守るためにも、Qであることを明かさなければならないと、宮崎のチームに所属する際にチームの了承を得て世間に公表しました。
公表したときは、やはりすごく怖かったです。「気持ち悪い」といった心無い言葉をかけられるのではないかと恐れていましたが、実際には「よく勇気を出して公表してくれたね」「頑張ったね」と励ましてくださる方が多くて、自分のことを肯定的に受け止めてくださる方が想像以上に多いことに驚きました。そのとき、私は性的マイノリティに関しても自分の中で固定観念を持ってしまっていたのかもしれないと気がつき、次第にLGBTQ+関連団体の活動にも興味を持つようになりました。
そうした中で出会ったのがプライドハウス東京です。アライアスリート研修というものがあると聞き、自分自身も講演活動を始めたタイミングだったこともあり、いろいろなことを勉強できればと受講を決めました。
——アライアスリートとして、現在はどのような活動をしていますか?
研修を受けて自分に何ができるのかを考えた結果、現在は自分のライフストーリーを話す講演活動と、スポーツを通じて多様性のある社会を目指す一般社団法人S.C.P. Japanの理事を務めています。講演では、「みんな違ってみんないい」というタイトルで、一人ひとりの性格や髪型、好きな食べ物が違うように、この社会にはいろいろな人がいて、性のあり方も多様であることを認識してもらえるように、企業や自治体、団体などさまざまな場所で話をしています。
——残念ながら現在の日本はまだ、齊藤さんのように性別を意識せずに生きることが難しい社会だと感じます。ご自身の経験から、どのような仕組みや意識があれば、あらゆる人が生きやすい社会に変わっていくと思いますか?
まずは「知ること」かなと思います。理解しなくても良いので、多様な性があり、多様な生き方があるということを、たくさんの方に知っていただきたいです。
私たちは思っている以上に、親や祖父母、周囲にいる人たちの影響を受けています。育ってきた環境によって考え方や価値観が固まってしまいやすいからこそ、それを打ち破って広げるために、たくさんの人と会って、いろいろな生き方を知ったほうが良いと思うのです。私自身、LGBTを知った時と、LGBTQ+を知った後では感覚が大きく異なりました。知ることで広がる世界がある。性の話に限らず、さまざまなことに通じる話だと思うので、日頃から自分の身の回りの世界に閉じることなく、いろいろな考え方に触れてほしいなと思います。
海外では、LGBTQ+当事者のカップルが当たり前のように公園で手を繋いで歩いていますよね。そんな風に、いろいろな人がもっと自分らしく生きられる社会になればいいのになと感じます。
そもそも私たちは、一人として同じ人はいません。みんな違っています。その中のひとつとしてLGBTQ+がある。そういうことを日常的に学べる機会があるといいですよね。私もその一助となれるように、講演活動にも引き続き力を入れていきたいです。
——ここまでお話を伺って、齊藤さんは今、自分の生き方に自信をもって、ありたい姿で堂々と生きていらっしゃるように感じます。周囲の目を気にしていた中学時代から現在の姿に変われたのは、何がきっかけだったのでしょうか。
講演でたくさんの方から自分の生き方を認めていただき、自分の考え方にポジティブな言葉をかけていただいたことで、自分を信じられるようになったことが大きいかもしれません。かつての私は、自分のことを「人と違って気持ち悪い、煙たい存在」と捉えていましたが、講演活動を重ねる中で、そういう風に思うのは自分が自分自身を信じられていなかったからだと気がつきました。
人生経験を重ねて視野が広がった今は、人は誰しも人と違う部分を持っているし、むしろその「人と違う部分」が魅力のひとつになるとも思っています。自分がどんな姿でいたとしても、悪いことを言ってくる人は一定数いるもの。でも、自分の姿に良い言葉をかけてくれる人もいるのです。だったら、自分の気持ちを大切にしたほうがいい。本当の自分を我慢して隠すのではなく、ありたい自分の姿で、やりたいことを自分らしくやっているのが一番魅力的です。人間的な魅力を磨いて、自分は「自分が最も納得できる姿」でいよう。そう思えるようになったからこそ、私は今、齊藤夕眞として自分らしく生きられているのだと思います。
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